カラシニコフ

 私は人を殺した。しかし、自分の意志で殺したのではない。私が殺さなければ、私を殺すと言われて、私はどうしようもなく、殺した。その意味からすれば、殺されていたのは私自身だとも言える。死は、私たちの廻りにいつも漂っていた。そのくせ私は死についてよく知らない、解らない。私が、その時、撃鉄を引けば、何処に弾丸が命中し、どのように血が飛び散り、どのように苦しみ、どのように死んでいくのか、解っているようで、知らなかった。私が命乞いする老夫婦に向かって、止むを得ず、銃を撃った後、二人は呻くことなく静かに体が倒れていって、床に転がった。その後、硝煙の匂いと血の匂いに辺りは包まれた。私は恐かった。人を殺してしまった自分が。
人を殺させた、この、ゲリラ兵たちが。

 西アフリカ、シエラレオネのギニア国境に誓いカンビアで私たち兄弟たちは育った。ゲリラ兵が村を襲ったのは畑を耕していたから春先のことだったろうか。農作業をしている私たち兄弟に対してゲリラたちは銃を乱射しながら、向かってきた。私には、弾は当たらなかったが、弟は負傷した。(後に死んだことを知る)私を含めて村の女たちは皆陵辱された。そして、私はゲリラに加わるよう命じられた。まだ、15才の私は恐くて足が震えた。そして、私専用の銃を与えられた。その時から、私には銃の匂いが身にしみていたのかもしれない。

 1947年式カラシニコフ自動小銃、通称AK47、口径7.62mm。それが私に与えられた銃だった。この銃は部品点数が少なく、子供でも簡単に銃の管理が出来る。私たちゲリラは食料が無くなると、食事間近の村を襲い、食料を確保し、金目のものを略奪した。村を襲うことは簡単だった。銃を乱射しながら、突入すると、村人たちは一目散に逃げるので、直ぐに私たちは、目的を果たした。略奪が終わると銃の手入れである。ガスシリンダーを取り外し、ガンオイルをしみ込ませた布で清掃する。分解に2分、清掃に10分、組み立てに3分。全部で20分もかからない。私の銃の匂いはこのガンオイルだと思う。ゲリラとして活動している間は、石鹸で手を洗うことなど、なかったから。

 私たちゲリラ部隊の正式名称は「革命統一戦線」(RUF)。だが、ゲリラと言ってもベトナム戦争のベトコンのようにイデオロギー云々に貫かれた集団ではなかった。国産のダイヤの利権を争っているだけの、ギャングに等しかった。実際、私は、ゲリラ兵から、腐敗した国の政治を何とかしなければならない、とかそういう話は一切聞いたことはなかった。略奪はエスカレートし、国連が介入する事態に陥った結果、2001年、休戦協定が結ばれた。

 私は自由の身になった。久しぶりに石鹸で手を洗った。しかし、体の何処かから、銃の匂いが伝わってきた。私は、人を殺したが、そのことで罪に問われることはないだろう。しかし、人を殺すということ、人の命を人が奪うということの意味の大きさに圧倒されそうで、それは一生なくなるとは思えない。殺された者の遺族の憎しみは実際に殺した私を介して連鎖する。私には血の匂いがする。私には銃の匂いがする。これは、生きている限り、命題化して、私に付きまとう。

 彼方の地では、今も、復讐の連鎖が絶えない。殺りくの罪を犯した者、愛する者を殺された者の苦しみは何処まで続くのだろうか。私は今日も、故郷へ帰る道を辿っていた。頭の中に、私が殺した老夫婦の、大きな亡霊を引きづりながら。

BGM:加藤登喜子「戦争は知らない」

案内へ