逃避行

 冬の朝、僕は普段はほとんど乗らない、スバルの古いクーペを駆り出し、今の人なら懐メロとしか思えない古い曲ばかりを集めたカセットテープを放り込み、ひたすら西へと向かった。

 西へ行けば、海へたどりつけるという以外はほとんど考えていなかった。ただ、信号で走りやすい方角に進み、おおよそ西、或いは南西、北西へ、一般道では許されない速度でやたらめったら、アクセルを踏んづけていた。

 別に何もかも嫌になった訳ではなかった。ただ、逃げたかった。何からだろう。何度も自問自答していたが、明確な答は、車を走らせている間には、思い付かなかった。

 車はこの街を横切る川の近くまで来た。「このあたりも、ずいぶん変わったな・・・」そう思いながらカセットレコーダーのシグナルがA面からB面に変わるのを横目で確認していた。見慣れないコンビニエンスストア、スーパーマーケット、ショッピングタウン。それらはまるで自分をあざ笑うかのように、「どうだ、すごいだろう」と自慢しながらにょきにょきと地中から生え上がったように感じた。

 ドラマだったら、「過去のある男と女が冬の海で再会する」そういう展開が最高だと思っていた。今日は別に誰とも逢う予定はない。出先で見知らぬ人に出会うことも、まあ、ないだろう。そんな風に考えている自分が消極的だなんて、とっくの昔に思えなくなっていた。街はずれの海岸に辿り着いたのは、お昼近くになっていた。出来るだけ海に近い所にスバルを停めて、コートを羽織り、外に出てみた。太陽は、冬でも自分の役割を一応果たしているのだといわんばかりに照りつけていたが、風は冷たく、暖が欲しかった。あたりには、カップルが一組と、犬を連れた老婦人と、サッカーボールを蹴っている少年が二人いるだけだった。密かに劇的な出合い、或いは事件に遭遇すると期待していた自分が、ちょっとだけみじめになった。

 波打ち際にしゃがんで、煙草を吸って、その煙りが生まれては、即座に風に吹き消されていくのを何分か眺めていた。本当はここには捨ててはいけない吸い殻を砂の中に埋め込んだ時、ぼんやりと思った。そうだよな・・・結局自分と追っかけっこしていたんだ。逃げていたのは自分からなんだ。砂が靴の中に入らないように気をつけながら、その場を離れた時に、一羽の海鳥が水面をかすめて飛び去っていくのを見つけた。ほら、僕から逃げて行くものもあるじゃないか。無理にそう思ってみたが、かえってみじめで、苦笑するしかないと感じて、少し顔をゆがめた。

 スバルに戻った時にボンネットに薄い汚れが着いているのに気付いた。この季節には使われていなくて、無造作に「使用禁止」と書かれたベニヤ板が貼られたシャワー室のドアを押して入り、ハンカチを水で濡らした。そしてボンネットの汚れを拭いてやった。その時になって遠く離れた堤防の近くで漁師の人が焚き火を始めたのに気付いた。燃えるものがないんだよなあ・・・でもまあ、捨てたものじゃないか。月並みな台詞を呟きながら、車のキーを取り出し、暖気運転を始め、それでもまだ汚れを落としていた。水洗いしていないから、傷になるかなあ、最近では珍しいそんな繊細な不安を感じながら、ハンカチで一生懸命ボンネットを拭いていた。汚れがすっかり落ちた時になって、やっと元の道を戻り、現実の生活を繰り返す決心が着いていた。

BGM:甲斐バンド「安奈」

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