炎症反応〜モンゴル

 ツルファンから北京へ向かう列車の中で僕は決意を固めていた。ここまで来たら、真直ぐに帰るのも寄り道するのも同じだ。僕の中で、幼い頃に夢見ていた幻想を具現化するには今しかない。それは、かなりの確実性をもっていると思えた。
「裸馬に乗ってモンゴルの大草原を走りたい」
僕は行動に移した。

 ハミで列車を降り、隊商路を通ってモンゴルに密入国した。ハミの市場で、英語を喋っている人間を聞き耳をたてて探し、その中から真面目で、口の固そうな人物を選ぶと、一万円札を握らせ、荷物に紛れ込んだのだった。モンゴルの高原地帯に入っていくにつれて、山の景色が変わっていくのがはっきりと感じられた。どちらかと言えば険しい岩山に近い風景が、なだらかな緑色に変わっていった。そこは、生命としての原風景を垣間見させる場所のように思えた。草原地帯の中に完全に入ると、あたり四方一面、果てしない緑色の大地である。その偉大さは形容しがたく、例えて言うならば、東京から富士山まで一面草原地帯が広がっているような光景だった。

 モンゴル政府は定住化政策を進めているが、まだ、遊牧民は多くいて、しばらく自分も遊牧民と一緒に過ごしたいという意向を一緒に来た商売人に伝えてもらい、僕はつかの間の遊牧生活を楽しんだ。ここで生活していると、人は季節とともに変わっていくのだということを実感出来る。牧草を求めて移動し、遊牧民は定住しない。農耕民族の日本とは全く違った生活だった。そして、馬を駆って、ヤクの群れを追う姿は、騎馬民族を彷佛とさせた。自分も馬に乗ってみると、視点の高さが違うことで、よりいっそう景色が俯瞰的に見えるのを体感した。暖かくなるにつれ、名前の知らない花が咲き誇り、僕を歓迎しているように感じた。

 しかし、それでも、僕は胸の中に、もやもやとした、晴れないものを感じていた。日本で、やれ、コストだ、ITだとか言っているより、遥かに地球にいることを体感出来るではないか。顔立ちも似ているし、何とかすれば、国籍も得ることが出来るかもしれない。しかし・・・

 その理由をぼんやりと知ったのは、遊牧生活を始めて五日目の夕方だった。その日は飛び抜けて、夕焼けが綺麗だった。明るい黄色びた太陽が、次第に赤く染まり、その次に空が赤く染まり、そして大地が赤く染まった。その一瞬、あたり一面が深紅に染め上げられた。まるで、火星にいるように。

 写真家の篠山紀信は女性の写真を撮るには夕方が最高だと言う。何故なら夕陽を見て、心がさざめくからだ。では、何故、夕陽を見ると心がさざめくのか。分からない。人間の科学力とはせいぜいその程度のものだ。だいたい、今だに、悲しい時に何故涙が出るのか分からないのだ。赤い色はより近くに見えるので接近色とも言われる。血が赤いのは、体内の大切なものが外に出た時に直ぐ分かるように進化した結果だ。赤信号も、危険な合図が近くに見えるように工夫した結果だ。つまり、血の色が赤いのも、赤信号が赤いのも同じ理由にある。では、何故、夕陽が赤いのか。僕はその理由が分からないままにも、夕陽が何かを教えてくれた気がした。

 翌日、僕はネットに接続出来る場所を探し回った。密入国なのでウランバートルまで足を延ばすのはちょっとためらった。比較的裕福そうな人家を見つけると、英語でインターネットをしていないか、尋ねて、相手が何を答えたかはよく分からなかったが、顔を縦に振るのを確認すると中に入り込み、モデムとパソコンの電源を入れてもらった。使っているブラウザがよく分からなかったが、YAHOOで検索して、自分のメールボックスを開いた。幾つかメールが来ていたが、その中から僕は一つのメールを開いた。内容は簡単で次のように書かれていた。

「タイトル:ありがとう
 内容  :待っている。」

 その後、僕は露店商で買い求めた、古いカンデラと夕食を持って、草原の縁へ行き、ささやかな食事をしていた。ここに来て本当によかった。空を見上げると、高地ゆえの澄み切った空気のせいか、星が綺麗だった。最高に。

 彼女がVシネマ「サヴァイヴ・ウーマン」のヒロインに応募したものの、サヴァイヴ・ウーマンとしては顔立ちが上品だということで、オーディションで落選したのを知ったのはかなり後のことだった。

BGM:加藤和彦&北山修「あの素晴らしい愛をもう一度」

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