炎症反応〜ツルファン

 その夜、カラジャルの安い宿屋で、僕たちは言う間でもなく、ぐっすり眠った。それから、一日かけて、長旅の疲れを癒すように、ゆっくりとツルファンまで行き、明日から蘭新鉄道で移動することにしていた。ツルファンのホテルで彼女は先に眠った。僕は彼女に出会った日のことを思い出していた。

 僕はある会社のプロジェクトのサブリーダーを務めていた。そのプロジェクトは工場から排出されるCO2を劇的にとまではいかなくても、ある程度削減される設備機械を開発する、環境問題の解決にささやかながら寄与出来るもので、僕は少し張り切っていた。その日プロジェクトの会議があり、結果を部長に知らせると、コストが高過ぎて技術部門と折り合いがつかなくなると言われて、頭にきた。最初から僕はコストのことなど考えていなかった。
僕は、
「コストと地球の未来とどちらが大切なんですか!?」
と叫び、話がまとまらなくなり、
「それでは、私は会社を辞めさせてもらいます。」
と言って、その日限りで退職したのだった。急なことだったので、親しい連中だけが、送別会という名目で宴を開いてくれた。

 二次会のスナックで僕は悪酔いして、居合わせた女性を物色し始めた。中に、その季節には似合わない純白のスーツを着た女性がいた。
(口説いてみようか。駄目で、元々だ。上手くいくか、酒をぶっかけられるか、どちらかだろう)
そう思って彼女の隣にずうずうしく座り込んだ。

 女を口説く時は、
「趣味は何ですか?」
とか、
「どちらの出身ですか?」
とか月並みな言葉で話しかけてはいけないというのが鉄則だ。いきなり、きざな言葉を投げかけるのだ。例えば、ドラマ「真夜中の匂い」で林隆三が女性を口説く時に使った言葉、
「ジョージタウンは何処の国の首都か知っているかい?」
例えば、立原あゆみの漫画「麦ちゃんのイタ・セクスアリス」で主人公の父親が呟いた台詞、
「60年安保の年に、何か、矛盾を感じて、俺はあるセクトのリーダーを降りたんだ。」
(僕は60年安保は全く知らないのに、何故か60年安保と聞くと感じるものがある)
僕が何時も用意しているのは村上龍の小説「ラッフルズホテル」にヒントを得た、
「こうやって飲んでいると、サイゴンが陥落した日、タムカンにいたあの少女のことを何時も思い出すんだ。」
なのだが、まあ、ここまでくると、妄想としか思われないだろう。

 で、その時に彼女を口説く為にとっさに出た言葉が、
「オーロラの見える所に行かないか?」
だった。
何故、オーロラなのか、よく分からないが、NHKの特番のせいかもしれない。しかし、それに対する彼女の返答は僕を驚かせた。
「きょっけんげんまく。」
(きょっ、きょっけんげんまく・・・?この女、気は確かだろうか。。。日本人じゃないのだろうか。。。聞き返そうか。分った振りして会話を繋ごうか・・・)
しばらく考えて、
「そうだよな、きょっけんげんまくだよな。」
と適当に答えた。彼女は、
「そうでしょう?」
と相づちを打ったのだった。

 その後のことはよく覚えていない。
「きょっけんげんまく」とは、とっさに彼女がオーロラを日本語に訳した「極圏幻幕」だということは数日後に知った。気が付くと自分の部屋に寝ていた。仲間が連れて帰ってくれたそうだった。あの後、僕は、黒点運動がどうの、太陽風がどうの、バンアレン帯がどうの、挙げ句の果てには、あと50億年もすれば、太陽は恒星爆発を起こして昼も夜もないんだ、と言って、彼女に説教していたらしい。

 それから、1ケ月ほど彼女と逢ってオーロラを見る計画を立てた。北海道でも、オーロラは見えると軽く考えていたが、彼女は確実性がないと言って、更に北へと向かうことになった。

 彼女はベッドの上で微かな寝息を立てて眠っていた。僕は彼女にはついていけないと感じていた。彼女との冒険旅行は本当に楽しかった。しかし、このまま続けていくと、アマゾンの奥地へ行きたいとか、ペンギンを見たいとか言うに違いない、そう思っていた。僕は、メモ帳を取り出し、
「先に帰る。戻ったらメールしてくれ。」
と書き、メールアドレスを添え書きした。
(実は彼女と日本で逢っていた頃はお互いの連絡先を知らせていなかった。次に逢う日時と場所を決めて、逢い引きを続けていたのだった。つまり、一度会えないとそれっきりの仲だったのだ)
僕は彼女に知らせずにひっそりと、ホテルを離れた。
どちらが我がままなのかも分からないままに。

BGM:チューリップ「心の旅」

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