炎症反応〜ノルドビク

 僕はくたくたになっていた。寒さにへこたれて、ほとんどホテルに閉じこもっていた。彼女はというと、一日に何度かは、外に出て、街や人の様子を僕に伝えてくれた。

 女の人は皮下脂肪が厚い分寒さに強いという話を聞いたことがあった。あま(海女とも海男とも書く)の分布は南の地方では男女とも多いが、北に行くに連れて男性は少なくなるというのだ。僕のへこたれに反して彼女が元気なのは、女性特有のものなのか、固体差なのか分からなかったが、北海道よりも寒い所にいるという不安が僕を打算的にした。

 とびっきりの女性を前に、早く抱いてみたいという物欲は希薄になり、旅費は大丈夫だろうか、こいつ、燃費の悪い女だなあとか、そんなことをしきりに考えていた。

 何日かして、寒さと、不自由さ(携帯も通じない)に我慢出来なくなって、彼女に尋ねた。
「そろそろ行こうか?」
行こうか?ではなく、帰ろうか?のつもりだったのだが、それに対して彼女が言った言葉は、僕を仰天させた。
「北極海を見たい。」
彼女は北極海の海岸線を見たいと言うのだ。
「今の季節、大地が凍り付いていて、海も凍り付いているので、陸地か海か、見分けがつかないよ。それに、北極海が見れる場所は後数カ月間、夜が明けない。」
それでは懐中電灯を持っていけばいいというのが、彼女の単純明快な回答だった。

 僕はとにかく、マガダンからは交通手段がないからシベリア鉄道の終着点のウラジオストックまで行き、夜が明ける季節を待って、北極海沿岸の場所に行くことを提案した。実は、そのうち彼女が諦めて、ウラジオストックから敦賀への定期航路で日本に帰る気になるかもしれないという企みをもっていたのだ。

 しかし、ウラジオストックに滞在している間に僕の心境も変わっていた。ウラジオストックはディスコもデパートもある都市なのでマガダンに比べるとはるかに快適だった。また、ここで時間をつぶすには強い円は味方だった。実は幼い頃北極海を眺めている夢を見た記憶があるのだ。それは、日本の海岸から見える海の景色とほとんど変わりはなかった。それを確かめたい気持ちが次第に先立った。

 そんな訳で、北極圏が白夜に入ったという情報を得ると、僕たちはすぐさまシベリア鉄道に乗り込んだ。冷たい色をした空の下に、針葉樹が広がる景色の中を長いこと走る旅になった。目的地は、クラスノヤルクス。そこからタミル半島の付け根に位置するノルドビクへ行き、北極海(厳密には北極海に隣接するラプテフ海)を見るという計画だった。陸路と空路を頼っての、日本を縦断するくらいの距離に相当する長旅については、何時の日にか、語ることがあるかもしれない。

 春を迎えるといっても、日本の冬以上の冷たさと、地の果てに落ちていきそうな不安と(二人だけの)孤独に満ちた道のりだった。北極海は、氷の季節が終わっていたためか、穏やかな顔をしていた。日本の海と変わらないと思った。ただ、遠くに、流氷だか、氷山だか、馬鹿でかい氷の固まりがまだ浮かんでいることを除けば。

 彼女は地平線の近くを回周している太陽を眺めていた。僕は、防寒着の襟を立てて、もうすっかり吸い果たした煙草を欲しいと感じていた。彼女がゆっくりと波打ち際に近づき、しゃがみ、辺りに落ちていた小石を、海に投げ付けた。僕は少し不安になった。


BGM:紙ふうせん「冬が来る前に」

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