炎症反応〜タシケント

 あんなことを聞かなければよかった。完全に後悔していた。

 北極海を見ていた彼女は寂しがっている。そう確信した僕は、ノルドビクからの帰り道、まだ、資金的にも体力的にも平気だぜと言わんばかりに、見栄をはってこう尋ねたのだった。
「もう、行きたい所はないか?」
彼女は、
「もう、日本に帰りたい・・・」
と答える筋書きだった。ところが、彼女が答えた言葉は僕をへなへなと床に倒れるほどのとんでもないものだった。
「タクラマカン砂漠を横断したい。」

 ・・・タクラマカン砂漠、ウイグル洲自治区タリム盆地に位置する広大な砂漠。
タクラマカンとは、ウイグル語で「入ると出られない」を意味する。僕は小さい頃に読んだ、スウェーデンの地理学者スウェン・ヘディンの探検記でタクラマカンをよく知っていた。それにしてもタクラマカンという名前を知っているこの女、ただ者ではない。普通ならゴビ砂漠とくるだろうに。

 ちなみにヘディンの一行は、タクラマカン砂漠を横断するために雇った従者が、食料の手配を指示通りにしていなかったせいで、最悪の状況を迎える。食料も水もなくなり、ヘディンは連れてきた鶏の血を飲む。別の従者はラクダの尿を飲み、痙攣を起こす。激しい飢えと乾きの中、従者たちが次々と倒れ、最後に残ったのはヘディン一人だった。(後から何人かの従者が後を追って生還するのだが)そのヘディンが砂漠の中で水を見つけた時の行動が、崇拝に値する。咽がからからに乾いたヘディンが水を見つけた時に、彼は直ぐに水を飲まなかった。まず、脈を測り、そして、水を飲み、もう一度脈を測った。脈拍が急激に回復しているのを確認したのだ。科学者として並外れて冷静な行動だった。

 気を取り直して彼女に言った。
「横断は止めておけ。世界で何人といない冒険家がスポンサーのバックアップのもと、行うものだ。名前の通り生きて出れなくなるぞ。」
それでも彼女はタクラマカンを見たい、触れたいと言う。

 僕はいい加減、投げやりになっていた。旅先で買った外国の煙草がきつ過ぎて、気分もよくなかった。しかし、時間と資金と労力を費やして喜ばしてやれるだけの女には違いない。僕は迷った。

 しかし、彼女はそんな僕の迷いを知らないのか、からかっているのか、純粋に冒険を楽しみたいのか、旅券を次々に買って、ノボシビルスク、カラガンダへと列車を乗り継ぎ、中国領事館のあるタシケントへ向かいビザを取得した。クラスノヤルスクからは日本を縦断する距離で、まる六日かかっていた。僕は彼女を連れて旅するように振る舞いながら、まるで引っ張られるかのように、彼女と長い列車の旅に相乗りしていたのだ。

BGM:子門真人「ひとり旅」

前へ案内へ次へ